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2009年1月8日 更新 香川の老舗

顧客の厚い信頼を得て、創業100年超。89歳と71歳の姉妹が営む卵の卸問屋-有田鶏卵 卵の鮮度と品質にこだわり続けて100年以上。数十年来の顧客も多い、老舗問屋「有田鶏卵」。明治後期に創業した父親の後を継ぎ、有田美代子さん(89)と康子さん(71)の姉妹が2人で営む。長きにわたる歴史と現在について話を聞いた。

時代を超えて、卵を届ける

「有田鶏卵」は、有田喜太郎さんが明治後期に卵の卸問屋として創業。農林大臣賞を受賞するなど、扱う卵の品質には定評がある。現在は、喜太郎さんの長女・美代子さんと四女・康子さんの姉妹2人が力を合わせ、卵の選別から配達まですべての仕事を行っている。
戦前から、地元と大阪市中央卸売市場など京阪神へ卵を出荷。10人以上の使用人を雇い手広く商いを営んでいた。

1945(昭和20)年7月4日未明、高松市は米軍の空襲を受けた。通町にあった有田さんの社屋と自宅も罹災した。「焼夷弾が落ち始めるとすぐに、母親と幼いきょうだいらは松島町に避難し、父親と私はおひつのご飯と漬け物をさげて新地(遊郭)に逃げました。そこにも焼夷弾が落ち出して、1人10円払って漁船に乗り、沖合の島に避難しました。北浜に戻ると市街は一面焼け野原でした」と美代子さんは振り返る。
戦中から戦後にかけての食糧統制で卵は配給品となった。戦後まもなく玉藻城のそばに事務所を構えた。組合の理事長だった喜太郎さんは、県から委託されて配給を取り仕切った。美代子さんは毎晩、水上警察へ出向き、闇で流通し没収された卵を回収して県に届けた。

戦後は、三輪のオートバイに乗って富田(現さぬき市)まで「有田鶏卵が来ました」とマイクで言いながら走った。すると、農家の人が前掛けに数個の卵を包み、三々五々集まってきた。美代子さんは毎朝、琴電で陶駅まで行き、駅から歩いて峠を3つ越え、山田(現綾川町)の集荷場まで通った。岡田(同)の農協で荷造りした卵は坂出港から、高松では東浜から船に乗せ、京阪神に出荷していた。
1967(昭和42)年に高松市中央卸市場が開場。同時に、喜太郎さんと美代子さんは、市場内に設立された高松鶏卵販売(株)に所属したが、7年後にそこを退社して再び「有田鶏卵」として営業を始めた。

品質の良さと確かな仕事

本当に良いものだけを届けるために、卵は一つひとつ目で見てチェックする。ひび割れはないか、新鮮か。長年の経験から、卵の色つやを一見すると鮮度がわかる。卵のプロだ。「いつも気を張って、神経を卵に集中させて。しゃべりながらはできない仕事なんですよ」と康子さん。
卵は生鮮品。作業場には冬でも暖房を入れず、夏は扇風機で卵に風を送る。クーラーを使わないのは、常温で保存する納品先が多く、卵を冷やしすぎないようにするためだ。

現在の納品先は飲食店や製菓店が中心。卵の鮮度や質に厳しい店ばかり。戦前からの長いつきあいの顧客が多い。1年前に多度津町から高松市松福町に移転してきたオムライス屋「BOSCA(ボスカ)」の店主・濱田さんも顧客になった。「有田さんの卵は質が良く新鮮。おふたりの人柄もいいし」と信頼を寄せる。

心をこめた仕事が元気パワーの源

仕事は早朝6時から。美代子さんは自転車で、康子さんはバイクで配達に出かける。卵は量り売りで納品単位は1箱5㎏、10㎏になるが、運ぶ姿からは箱の重さを感じさせない。2人ともはつらつとした仕事ぶりだ。

「健康維持で仕事をさせてもらっています」と美代子さん。10代で家業を手伝い始め、今なお第一線で活躍中。メガネは必要ない。経理を担当し、申告も自身で行う。そろばんをはじき、帳簿は達筆な字で手書きする。数字に強く、町内会、福祉ボランティアなど四つの団体の会計を任されている。後継者はいないが、美代子さんは「いつも10年後を目途に仕事をしています」と話す。101歳で亡くなった喜太郎さんは、98歳まで現役だった。

「毎日ニコニコと笑顔で、感謝の気持ちを持ってありがとうと言う。1日1日を『幸せ、幸せ』と言って過ごさせてもらっています」と美代子さん。人とのつながりを大切に、心のこもった仕事を続けることが元気パワーの源だ。

有田鶏卵

  • 明治後期 有田鶏卵創業
  • 1989年 有田喜太郎さん、98歳で引退
住 所 高松市通町6-3
電 話 087-851-6000

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