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2010年2月4日 更新 那須幹博の讃岐のほんまですか?

栗林公園3 なぜ「栗林」か、などを推理する…… 栗林公園は、日本を代表する大名庭園にもかかわらず、なぜ日本三名園(兼六園、後楽園、偕楽園)に名を連ねていないのか。またそもそも「栗林」公園と名づけられた理由は、何か。資料をもとに推理した私の考えを披露させていただきたい。

1.なぜ、日本三名園でないのか?

高松藩は、初代藩主松平頼重公が家康公の孫であるなど、徳川本家と深いつながりがあったため、歴代藩主は江戸城黒書院常溜(つねのたまり)の要職を務めてきた。しかしその結果、実は幕末の鳥羽伏見の戦いで、会津藩など他藩に先駆けて、最初に官軍(錦の御旗)に果敢に鉄砲を撃ち込み攻撃してしまった。しかし、たちどころに薩長主体の官軍の反撃にあって降参、新政府にとっては、高松藩は賊軍であり、高松藩の領地は賊軍の地となった。だから、旧高松藩の領地には天皇陛下の行幸はなかったのである(三名園は、明治初期に生まれた言葉だが、行幸の地からのみ選ばれたのであろうと推測される)。

また、香川県は、全国でも一番遅く独立した県(1888年・明治21年)であり、明治初期は将来が暗澹としていた中で、とても公園の管理どころではなく、大正天皇が皇太子の時に来られる予定に間に合わすかのように建てられた商工奨励館(当時は県立博物館)が完成する1899(明治32)年までは、公園自体がかなり荒廃しており、名園にはふさわしくない姿でもあった。しかし、1903(明治36)年の大正天皇(皇太子時代)の訪問をきっかけに、復興を遂げ、1907(明治40)年頃から大正時代の国定教科書の国語に、「木石の雅趣、三名園より優れり」と紹介されている。

2.なぜ、栗の木がほとんどないのに、栗林公園なのか? 

2代藩主頼常公(水戸光圀の実子)の時に、水不足などの飢饉対策の非常食として、栗の植栽を行ったという記録があり、古絵図にも栗木原の存在が確認され、栗林と名づけられた考えもあるが、初代頼重公の英公(頼重)実録には、彼が1642年に赴してわずか1カ月余で、「栗林荘で遊ぶ」との記述があり、その考えは矛盾している。また、「栗林」という地名は、1890(明治23)年の市制・町村制施行時になってからである。

結局、私は、紫雲山=「里山」にある下屋敷だから、「栗林荘」と名づけたと考える。紀元前300年頃の中国戦国時代の思想家であった荘子は、自書の中に「山本第20章、遊於栗林」と書いている。中国では、古くから栗林は里山である。栗林が、元々里山の意味なら、その地名がなくても不思議ではない。借景である里山の紫雲山があるからこその栗林公園であると私は確信する。

那須 幹博

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