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2010年2月18日 更新 那須幹博の讃岐のほんまですか?

讃岐は素晴らしき 日本伝統文化の宝庫 ―能― 「滅びてほしくない民族があるとしたら、それは日本人である。日本人は貧しいが高貴である」。詩人で外交官のフランス人、ポール・クローデルの言葉である。そこには忘れてはならない日本人の素晴らしさがあった。彼は、1921(大正10 )年から1927(昭和2)年までの5年余、駐日フランス大使であった。彼に、ジャポニスムなどの大きな影響を与えたのは、実姉のカミーユ・クローデルであり、彼女は19 世紀を代表する近代彫刻の父オーギュスト・ロダンの、優秀で美貌の弟子でもあった。ロダンの晩年の助手は、香川出身の藤川勇三であったことは有名である。

日本人の何が、それほど彼をひきつけたのか。四季折々の自然の中ではぐくまれてきた精神性の高い日本文化の存在も、欠かせないと思う。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、世界で日本人だけが虫の音を聞き分け楽しむ感性を持つと驚嘆したこともひとつの現れである。ふるさと香川には、そのような素晴らしき伝統文化が長い歴史の中で培われてきたのである。その一端をご紹介したい。

(1)「能」について

「能」は、時間と空間を超越する夢幻能として、今では当たり前のことだけど、当時の常識を破る芸能であった。京で観阿弥・世阿弥の親子の「能」舞台を、室町幕府3代将軍足利義満が見初めて感動し、当時の最高の博学者でもあった関白二条良基も、彼の日記に世阿弥に出会えた感想を「心がほけほけする(高鳴りドキドキする)」とまで書いている。当時の武家社会においては、能は貴族社会にはない新たな強みとしての芸能文化であった。「能」は、基本的には、死後の世界からよみがえったシテが、ワキに語りかける物語であるが、仮面劇、舞台劇、男性劇であり、個人のイマジネーションを強く求められるものでもある。当時の男色文化を理解しないと誤解が生まれるが、17 歳の義満が、絶世の美少年であった12 歳の世阿弥に恋をして、お互いを愛するようになる。白洲正子をして、稚児姿は、幽玄の本風なりとまで言わしめている。

一子相伝門外不出であった世阿弥の世界的名著「風姿花伝」は、明治になって一般に公開され、瞬く間に各国に翻訳された。讃岐と能は縁が深く、讃岐が舞台の能は3作ほどあり、「松山天狗」(崇徳上皇と西行)、「八島」(源義経)、そして「海士(あま)」は、藤原不比等(淡海)と海士の悲しい恋の物語である。2人の間に生まれた子ども「房前(ふささき)」は、現在ことでん志度線の駅名にもなっている。また、明治になって加賀前田家から松平家に贈られた染井能舞台は、現在、人間国宝の憧れの舞台でもある横浜能楽堂に移築されている。能の話は、男と女、恋愛、親子、友情など時代を超え、今日でも十分理解できる内容だが、特に高齢者問題については深い洞察があり、現代社会でも大いに参考になるものである。

那須 幹博

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