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2010年3月4日 更新 那須幹博の讃岐のほんまですか?

讃岐は素晴らしき 日本伝統文化の宝庫 (2)茶の湯について 徳川家康が、世継ぎを絶やさないために、朝廷の五摂家に倣って、御三家を創設。9男義直に尾張家、10男頼宣に紀州家、11男頼房に水戸家を興させたが、最初の男子が末弟の水戸家に誕生。兄に先んじて世継ぎが産まれることなど厳しい秩序を重んじる封建武家社会ではあってはならぬこと。生まれた頼重公は、危うく難を免れ、京都の天龍寺預かりとなったが、京の都では、後水尾天皇との運命の出会いが待っていた。
しかし、当時朝廷は次第に幕府に圧され、2代将軍秀忠の娘の和子(東福門院)が後水尾天皇の中宮となり、禁中並公家諸法度が制定され、過去にあり得なかった天皇の二条城行幸、そして紫衣事件で、天皇の権威はすっかり失墜し、唯一残された存在力は、「文化」であった。後水尾天皇は、江戸幕府に文化で対抗しようと、「京都寛永文化サロン」を主宰し、立花の池坊専好、書家・陶芸家の本阿弥光悦、画家の俵屋宗達、尾形光琳、茶道の千宗旦、小堀遠州など、当時最高水準の錚々たる文化人が参集した。この「京都寛永文化サロン」に、頼重公も立ち寄り、和歌では後水尾天皇から指導を受けるなど、文化人との交流を深めた。

1642年、文化芸術など高い教養を身につけた20歳の松平頼重公(水戸黄門〈光圀〉の実兄)が初代藩主として高松藩に赴任してきた。頼重公は京都から、お庭焼き、保多織、小品盆栽、能など、優れた文化芸術を持ち込んだが、茶の湯もその一つだった。高松藩の茶道頭として、利休のひ孫で当時72歳の千宗守を招き、およそ2年半ほど指導を受け、その後、宗守は京都に戻り、武者小路で新しい流派を開き、武者小路千家を興した。武者小路千家が、別名官休庵と呼ばれるのは、高松藩の茶道頭という官職を休して(=辞して)創設したからだと伝わっている。高松が三千家のひとつである武者小路千家発祥の地と言われ、現在も讃岐が茶の湯王国と評されるのは、頼重公や栗林公園(当時は、御林、栗林荘)に起因していると言っても過言ではない。

四季に恵まれた環境で育まれ、茶の湯、能、お庭などに代表され、「真行草」や引き算の文化ともいわれる日本文化は、同じ伝統的と言っても、ヨーロッパのように保守不変的なものではなく、たとえば茶の湯では、利休、織部、遠州に見られる「守破離」(能では「序破急」)の如く、破格と創造を繰り返し、常に、革新、アバンギャルド、常若(とこわか)を目指し、しっかりと権力(茶の湯で言えば、利休が仕掛けた禁裏茶会、能では義満と世阿弥の愛等)と結びつき、あるいは権力を超えて存在してきたことを忘れてはならない。時代の転換期には、能の世阿弥、茶の湯の利休などが登場し、彼らの思想や行動が後世の価値観を変え、導いてきたのである。このような日本文化に触れられるのが讃岐であり、讃岐には眼からうろこが落ちる素晴らしき文化の世界が広がっている。

那須 幹博

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